「ひとり勉強ノート」がひとり勉強の力を奪うとき(3)

小学校教育の現場では、結果よりも過程を評価する教育が重視されているように感じられる。平たくいえば、何点取ったかよりも、どれだけ頑張ったかが重視されているということだろうか。

それは方向性としては決して間違いではないのだけれども、頑張りの基準が誤った方向を向いているような評価のしかたは改められるべきだと思う。


ことにひとり勉強ノートにおいては、「そのノートを通じて何が出来るようになったか」よりも、「どれだけ手間暇をかけて完成度の高い1ページを作ったか」で評価される印象がたいへんに強い。


一例として、余白や改行を使わずに1ページをびっちり埋め尽くしたノートや、色ペンでカラフルにデコレーションされたノートが、高い評価を受けやすいように見受けられる。確かにそれで「頑張った感」は出るが、大事なのは「その日何が出来るようになったか」「その日新しく何を学んだか」であって、その評価基準の中に、見かけ上の1ページの芸術的完成度を交えるべきではないと思う。


「ひとり勉強の力を奪うノート①『教科書本文・問題文の丸写しをするノート』」の項で述べたような、教科書本文や問題文の丸写しをする子が多いのも、そうした誤った頑張りの基準が浸透している最たる例であると私は考えている。


繰り返しになるが、教科書の本文も設問の問題文も、本来は読むものだ。それをノートに模写することを想定して作られてはいない。もともと教科書は完成された仕様だから、それをそのままノートに写すことで、簡単に完成度の高いノートが作れてしまう。頭なんて使わなくてもよい。それを大人が無思慮に「こういう頑張りが素晴らしい!」と諸手を挙げて全面評価してしまったから、いつしかそれがひとり勉強のスタンダードになってしまった。


少し考えれば、それは勉強とは呼べないことくらい分かるはずだ。精一杯手間と労力をかけた子どもの頑張り自体は大いに認めるとして、そこから自力で問題を解決できるような力が育つような、より有用なノートの活用へ軌道修正していくのが、大人に求められる役目であるように思うのだが、この考えは間違っているだろうか。


読むべき情報は、きちんと読んで理解しようとする。


この当たり前のことをおそろかにし続けた先に待っているのは、とてつもなく大きな日本語の壁である。読む力に乏しいと、中学以降は教科書本文や問題集の解説文・試験問題の指示で言っていることも理解が難しくなる。そうなるともう、ひとり勉強どころではない。教科書の内容ひとつにも誰かの補助が必要になる。私自身そういった現状に毎日・毎年心がすり切れるほど直面しているから、こういう事態はかなり重いものとして受け止めている。


誰かに通訳してもらって日本語をかみ砕いてもらわないと、手持ちの教材ひとつ使いこなせない体質になっては、いちばん困るのは本人だろう。いや、困っている自覚すら抱かないかもしれない。読めなくても困らないだろうと開き直るかもしれない。知らず、本人はそれで幸せだとしても、その子を社会に送り出すまでに関わった大人の心情としては複雑なものである。


人間の行動の中でも「読む」という行為は、存外に高度な訓練を必要とする技術である。読み取った文字の情報から頭の中で映像を起こし、こことは違う場所や時間の情景に思いをはせたり、抽象的な数量概念を具象化したイメージでつかもうとする。これはかなり知性的な技術だ。


だから、肉体の成長とともに、放っておいても難しい日本語が勝手に読めるようになるだろうと考えるのは、少し楽観的すぎやしないか。読むという行為は、れっきとした言語運用の訓練の末に勝ち取えうこることができる、努力のたまものなのである。


その点で、小学校のうちから、読めば分かる情報をいちいち書かずに読んで済ますことは、ひとつひとつは小さな経験とはいえ、やはりその経験値の積み重ねが人の精神の成熟においてたいへん重要な意味を持っているといえる。



「褒められるためのノート」から、「頭を使うためのノート」へ。


先生が褒めてくれるようなノートの使い方が、中身を伴った勉強になるとは、必ずしも限らない。

それよりもむしろ、これまで挙げてきたような頭を使わない勉強「風」の作業を何年も続けることで、知らず知らずのうちにその子の「ひとり勉強の力」を奪っているリスクにも目を向けたい。本来ノートは勉強の道具であり、消耗品なのだ。みみっちく余白を切り詰めて1ページにビッチリデコレーションしたりせず、子どもたちはノートをバンバン使い倒し、その代わりうんと頭を使って考えるような使い方をしてほしい。


綺麗だね、とても頑張ったねと誰かに褒められることに特化した、何かを写すだけの「ひとり勉強?」になっていないだろうか。それによって、考える時間が奪われ、ただページを埋めて提出する作業をこなすだけの「ひとり勉強?」の時間を毎日繰り返してはいないだろうか。


そういうことを、子どもの勉強を見守る立場である大人がちょっとでも考えるキッカケとしてこの記事が活きてくれるのなら、私も嬉しく思う。


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